日蓮宗の開祖である日蓮聖人が遺したお言葉は、心豊かに生きる知恵が詰まっています。
今回ご紹介するのは、『法華取要抄』の一節です。
御遺文 原文
此の土の我等衆生は五百塵点劫よりこのかた、教主釈尊の愛子なり。
不孝の失によって今に覚知せずといえども、他方の衆生には似るべからず。
有縁の仏と結縁の衆生とは、たとえば天月の清水に浮かぶがごとし。
・御遺文名『法華取要抄』
・文永11年(1274年)
・日蓮聖人 53歳
御遺文 現代語訳
この世界に生まれた私たちは、五百塵点劫という遠い遠い昔から教主釈尊の愛する子供なのである。
しかし、私たちは不孝を犯したために、今現在にいたるまで釈尊の慈悲をしっかりと受け止めることができなかった。
とはいえ、私たちが受ける釈尊の広大な慈悲は、他方の世界の人びととは較べものにならないのだ。
私たちと縁の深い釈尊と、釈尊に導かれた私たちは、例えるならば、天に浮かぶ月と月影が、清らかな水に浮かんでいるような関係である。
御遺文 解説
教主であるお釈迦さまが、仏教の根本であることを忘れてはいけません。
お釈迦さまは、天空にあるお月さまに例えられ、お釈迦さまに大事に見守られている私たちは、月の影を映す澄んだ水のようなものなのです。
日蓮聖人は、私たちの住むこの世界を、苦しみを耐え忍んでいくところだということを明らかにされました。それが娑婆世界です。
お釈迦さまは、久遠といわれる永遠の昔から、苦しみ悩む私たちを仏道に目覚めさせ、真実の世界に引き入れようと救いの手を差し伸べてくださっているのです。ただ、私たち凡人はその慈愛の中に生きることを信じきることができず、せっかくの救いの手に背き続けてきたのです。
日蓮聖人は、お釈迦さまの救いを根本としていることをお確かめになり、それをはっきりと認識しないことには、お釈迦さまに対する「不孝」になると警告されたのです。
永遠のお釈迦さまと、法華経によって救いをもたらすように約束されている私たちとの関係は、天に浮かぶ月と、水面に浮かんだ月とのようなものだとおっしゃっている、その深い意味をかみしめて信仰を深めていきたいものです。
南無妙法蓮華経