彼岸について

圓福寺だよりコラム「仏音」
Column No.013

 

春と秋、年に二回、彼岸の行事があります。

彼岸の意味といいますと、此岸に対して彼岸というのです。此岸とは我々の居る場所、迷い煩悩に明け暮れる処です。それに対し彼岸は悟りの世界、極楽浄土といわれる処です。

真の幸せは彼岸に行かなければ得られません。

 

なぜ幸せを求めるのか

誰でも幸せになりたいと願っていますが、この世の現実の幸せ、お金持ちになり、健康で広い家に住み、家族に恵まれ、高い地位に付き、自分の思い通りになったらなんて幸せだろうかと思っている人が大多数ではないでしょうか。

そのようなことも一部の人には可能でしょうが、すべての人には無理な話です。またそのようになったとしても、老いて死んでいくのです。永遠に続きません。

老いと死は皆平等にあります。わかっていながら何故人々はこのような現実の幸せを求めるのでしょうか。

しかし「真の幸せ」ということも、みな一度や二度人生で考えるのではないでしょうか。「真の幸せ」つまり彼岸に到る為に仏は、私たちに教えてくれました。

それは六つの修行(六波羅密の修行)です。

第一番目に布施の行いがあります。

これはどういう意味か。できるだけ他の人に何かを喜んで与える行いです。物でもお金でも、知識、技法でも他の人に与え、それによって自分の我欲を減らしていくことなのです。

 

見返りを求めない布施行とは

ここで大切なことは、例えば誰かにお金を与えても、受けた者がそのお金をギャンブルに使おうが遊びに使おうが、一度与えたら絶対文句は言わないことです。与える行為そのものが非常に尊く価値のあることなのです。

文句を言えば布施の行いになりません。財力や能力がなければ笑顔で周囲の人に接することでも立派な布施行です。

日常生活の中でクセをつけ、自分のできる範囲の中で常に心がけることなのです。

また私はどこにどれだけ寄付をしたとか他人に自慢したりするのも戒めなければなりません。天地宇宙の働き、法則は必ず陰陽のバランスをとります。この陰陽のバランスを人間の心、考えによって崩すと苦しんだり悩んだり、病気になったりするわけです。

両足に同じ重心をかけていればなんともないのですが、片方の足に重心をかけてたっていれば重心をかけた足が痛くなるのは当然です。

「自業自得」という言葉がありますが、自分のやった行為には必ず報いがあります。善いことも悪いことも、宇宙の法則ですから人間の力ではどうすることもできません。

布施行という非常に良い行いで良い報い(彼岸)を導きましょう。

 

 

平成05(1993年)年07月17日発行 第28号より