釈迦の心③ – 随他意・随自意

圓福寺だよりコラム「仏音」

 

column No.016

 

「随他意教」・「随自意教」について

日蓮聖人は、以下のように述べられています。

「法華経以前に説かれた種々のお経は、人々の身と心について説かれたものである。人々の心の望むところに随って説かれたもので、仏の説いたお経であっても結局、人々の心の中から出ないものである。

例えば、酒を好まない親に、とても酒好きな子供がいる。子供が可愛いく、子供の心をとらえるため、わざと子供に酒をすすめ、親も酒が好きなような振りをする。

すると、その子供は親も本当に酒が好きなのだと思い込んでしまう。

阿含教、方等教、般若経、華厳経など色々説かれているが、普通の人々がこれを読むと仏の本当の教えと思うかもしれない。詳しく理解すれば我々凡人自身の心について書かれたお経を読むことになる。

法華経というお経は、随自意といって仏のお心を説かれたものである。仏のお心は良いお心であるので、たとえ深く意味がわからなくても、法華経を読めばご守護は限りなく得られるのである。

筒の中に入った蛇が自然に真っ直ぐになるように、良い人と仲良くなると何とはなしに、心も行ないも言葉づかいまで素直に良くなっていくようなものである。

法華経もこれと同じで、この経を信ずると何とはなしに、自然に良くなってくるのである。」

このように述べられています。

つまり、お釈迦さまが自身の慈悲の気持ち、悟った智慧、人々を救うという気持ち、お釈迦さまの全てを法華経に込められたのです。

 

法華経はお釈迦さまそのもの

ですから法華経は、お釈迦さまの生命そのものといえます。

日蓮聖人は、信徒より種々の布施がありましたが、布施されたもの、食べ物でも何でも「法華経に御報告しました。」と随所で述べられています。

法華経が人格的になっているのです。

また「法華経の文字を拝見していることは、生身のお釈迦さまにお会いしているのと同じこと。この経の文字は即ち釈迦如来の御魂なり。」と言われています。

日蓮聖人は、法華経はお釈迦さまそのもの、仏そのものであると私たちに言いたいのです。

この法華経には、どんな意味が込められているのか。

つまり、仏の気持はどのようなものなのか。それは、お釈迦さまが亡くなって三千年位経ると、末法の世と言って人々の気持が乱れに乱れ、妬み、争いなど、醜いことばかり起る。

仏の道を正しく求める者もない、救いようのない世の中になる。かといって放っておけない。

このような世の中を何とかしなければいけないというお釈迦さまの慈悲の気持が法華経には根底に流れています。

そして、今の重病人といえる私たちを救う最高、最良の薬、南無妙法蓮華経のお題目を用意されたのです。

 

 

平成11(1999年)年01月13日発行 第40号より