蓮華の心

圓福寺だよりコラム「仏音」

column No.048

 

 

美しい蓮の花は、泥沼の中から出てくるのです。

 

あの汚い泥の中から生まれ育ってくるのです。泥の中に、キレイな花を咲かせる何かがある、ということです。

 

 

汚れたなかから、美しい花を咲かせる

 

お経に「不染世間法(ふぜんせけんほう)、如蓮華在水(にょれんげざいすい)」という言葉があります。

 

「世の中の色々な悪法、誘惑、汚いものなどに染まらないで、蓮華がその汚い泥の中に在るがごとく」という意味です。

 

私たちの社会も、同じように善よりも悪のほうが多い気がします。

 

この世の中を娑婆(しゃば)と言いますが、娑婆とは「忍耐を必要とする処、忍耐しなければ普通に生活できない処」です。

 

このような汚い・濁った・欲望・嫉妬・自惚れなどの世の中で生きていかなければならない。

 

しかし、そのような汚れた世の中でも、蓮華と同じように美しい花を咲かせることができるのです。咲かなければいけないのです。

 

 

心のなかに蓮華の花を咲かせる

 

「厭離穢土(おんりえど:汚れた世を嫌って離れること)・欣求浄土(ごんぐじょうど:浄土を願い求めること)」ではいけません。

 

この厭(いや)な世の中を離れて、他に楽園は求めることはできません。この世の中にこそ、浄土はあるのです。

 

日蓮聖人は「浄土というも穢土(えど)というも、土に二つの隔てなし、ただ我等が心の善悪によると見えたり」と言われ、私たちの心の中に浄土はあるとお示しです。

 

また、「当体蓮華(とうたいれんげ)」とも、「仏性の蓮は衆生の身内に納まれり」とも言われています。

 

私たちの本来持っている仏になる種は、例え罪深い者でも、極悪人でも、清らかな蓮華が泥水に染まらずキレイな花を咲かせるように、全ての人に蓮華の心を備えているのです。

 

そのような仏になる可能性を持っているのに、無明の酒に酔い、煩悩の汚泥に沈み、最高の境地である仏に成ることを閉ざしてしまっているのです。

 

止観(しかん)といって、心を落ち着かせて一日の終わりにでも、今日一日の出来事を反省してみましょう。

 

何か悪いことをしたと思ったら反省し、明日に活かすこと。つまり、懺悔する気持ちで、善を多く、悪の心を少なくしていくことが大切です。

 

このような考えで南無妙法蓮華経を唱えれば、この世で最高に美しく、香り豊かな永遠に咲き続ける花が開花するのです。

 

 

平成27(2015年)年07月01日発行 第75号より