正しくものを見る

圓福寺だよりコラム「仏音」
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column No.003

 
ものごとを正しく判断するということは、とても大切なことですが、反面非常に難しいことです。

私たちは普段の生活で、誤解、曲解、自分の感情で判断することがいかに多いか、冷静に考えてみると思い当ることが皆様にも多々あるはずです。

正しく見なかったために対立することは常にあります。それが大きくなると戦争です。

 

比べることにより差が生まれる

最近、特に新興宗教の問題がよく報じられています。

宗教の問題は他のものと違い甲乙つけるべきものではないでしょう。良い宗教、悪い宗教などと決めつけるものではないはずです。価値観の違いはどうしようもありません。

また同じ仏教系の中でも対立しているものもあります。それらは、部分的、一面を見て判断しているように思えます。全体を見て解るということは困難なことです。

法華経の考えは、ほかの教えと比べて優劣をつけるのではありません。

相対して比べると必ず差が出ます。法華経は全ての教えを統一、包み込むものです。

皆様は大なり小なり法華経に縁のある人です。この縁も先祖代々縁のあった人、人にすすめられて、自分で求めて等色々です。何故そういう縁ができたか、不思議なことです。

縁の無い人も多勢いるのに自分は何故なのか、深く考える必要があると思います。この縁を大事にする人は後々よかったと思える人です。

 

信じるということは疑わないということ

南無妙法蓮華経とは、法華経の教えを信じるという意味ですが、初心の者に法華経とはどんな教えなのか分かるはずがありません。

分からなくてどうして唱えるのか疑間に思うのが当然だと思いますが、ここが最も重要なのです。ここで「信」ということが出てくるのです。

南無妙法蓮華経と唱えれば必ず成仏(仏の境地に達する)できることを信じるのです。南無法蓮華経と唱えることによって「信」が生まれ、自然と法華経の教えが身についてくるのです。

法華経の教えを勉強していない人が南無妙法蓮華経を唱え、法華経の教えをと同じことを言うようになる人がおります。

当山にお参りしている人々のなかにも多くいます。理屈抜きに不思議なことです。(因に妙とは不思議という意味です)

日蓮聖人は「信は慧の因」と言われています。

信じて南無妙法蓮華経と唱えることによって、自然に智慧が湧き出てきます。この智慧によってものごとを正しく見ることができるのです。

今の世の中、政治、経済、宗教どれでも複雑で分かりにくい時代です。

正しく世の中を見ることが幸せに通じると思います。信じるということは疑わない、ということです。

 

 

平成04(1992年)年07月17日発行 第25号より