釈迦の心⑱ – お曼茶羅の中に入る

圓福寺だよりコラム「仏音」

column No.031

 

 

お曼茶羅(まんだら)とは

 

お題目を唱えることは、「お曼茶羅」の中に入っていくことです。

 

お曼茶羅とは、

 

①仏の救済の世界

②慈悲に包まれた大宇宙の姿

③仏の智慧の光に照らされた、仏の悟りからみた大宇宙の姿

④時空を超えて広大無辺なる生命になられた仏自身の姿

 

つまり、お題目を唱えることによって、法華経、仏と同体になるということは、お曼茶羅の中に入っていくことなのです。

 

大宇宙、全てが統一され仏の法華経を説く席に参加することです。仏の悟りの中の一念三千の世界に参加することです。これが一念三千の自然譲与であり、事の一念三千を得ることです。

 

このことは、私たちの体の中にお曼茶羅が入り宿ることでもあります。日蓮上人は、「私たちが法華経を持ち、南無妙法蓮華経を唱える体の中に御本尊が宿っている」といわれています。

 

南無妙法蓮華経と唱え仏の中に入っていく。また、仏に入ってもらうということは、仏の行動、慈悲に参加することです。

 

 

仏のお使いとしての自覚

 

私たちの身体を使って仏に活動してもらわなければ何の意味もありません。仏の活動を担っていくことです。これが凡夫の身のままの成仏= 「即身成仏」ということなのです。

 

仏のお使いとして自覚を持ち、仏のお手伝いをさせていただく、仏の慈悲の活動(世の中で苦悩する人々を救う活動)に参加させていただく、法華経にでてくる「如来の使いとして如来の事を行うなり」「如来と共に宿るなり」ということになるのです。

 

これによって仏の永遠の生命に加わる。ここで因である私たちと、果である仏が事実上同体となり、これが本因本果、事の一念三千、即身成仏、受持成仏といわれることになるのです。

 

お題目を唱えるということは永い修行もいらない、凡身のまま、直接仏の中に入り同体となることなのです。

 

 

平成17(2005年)年07月15日発行 第55号より