釈迦の心⑯ – 自然譲与

圓福寺だよりコラム「仏音」

 

column No.029

 

 

高度な修行をしないと仏になれないのか

 

前号で中国の天台大師が一念三千を会得したと言いました。

 

実際の天台大師の修行は、非常に高度な難しい修行をして心理を求めていったのです。

 

しかし、全ての人々が天台大師と同じ修行をすることはできません。やる気のある人もいれば、無い人もいる。

能力の有無、精神力の差、体の弱い人も、いろいろな人がいるわけです。

 

ところが、成仏(仏になる)ということは「一念三千」に限るというのですから、天台大師と同じような修行をできない我々は、仏になれないということになります。これでは困ります。

 

 

自然と自分の中に入ってくる

 

ここで、お釈迦様が苦労して考えられたのが、「南無妙法蓮華経」つまり、お題目を唱えることだったのです。我々凡人に対するお釈迦さまの有難い慈悲だったのです。

 

前に言ったように、妙法蓮華経の五字は仏の生命そのもので、妙法蓮華経の五字に南無する(信ずる)ことによって、仏の大きな生命体に入っていく、仏の生命と我々の生命が、お題目によって一つになっていく。

 

それによって仏の一念三千が、自然といつの間にか自分の中に入ってくる、自然と仏の世界に自分が溶け込んでいくのです。

 

我々に一念三千を悟る智慧がなくとも、その智慧の代わりに南無という信ずる心によって仏より智慧を頂く、心より信ずる気持ちが、一念三千を悟る智慧に代わっていくのです。

 

我々が天台大師のように苦しい高度な修行を重ねなくとも、絶対の心をもって南無妙法蓮華経を唱えれば仏より自然と一念三千が与えられるのです。

 

これを「自然譲与」といいます

 

 

 

平成16(2004年)年07月15日発行 第53号より