釈迦の心⑬ – 無始以来(始まりのない過去から)

圓福寺だよりコラム「仏音」

column No.026

 

始まりのない過去から、終わりのない未来

前号で、多勢の菩薩が「私たちに乱れた世の法華経の布教をやらせてください」とお釈迦さまに言いました。

そして、お釈迦さまは「それはやめなさい」と言いいます。

「実はこの娑婆世界(我々の住んでいる世界)に、もともと私の弟子が住んでいる。彼らこそ自分の後を継いで法華経の布教に専念するであろう」と。

お釈迦さまがそう言うと、無数の菩薩が大地より湧き出て、お釈迦さまの前に至る。

そのリ―ダーが、上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の四菩薩でこれらの菩薩を地涌(ぢゆ)の菩薩という。

人々は驚きの眼で、お釈迦さまに問う。

「これらの菩薩達は、どこから、何の理由でやってきたのか。

悟りを開いて仏になって間もないお釈迦さまに、このように数多くの、しかも熟練の弟子がいるとは信じられない。考えられない。25歳の若者が100歳の老人を自分の子供だというようなものである。」と。

そこで、お釈迦様は人々の疑間に答えるために喩えをもって、お釈迦様自身が実は、永遠なる仏であることを説き明かすのです。

永遠、無始(始まりが無い)ということを例えば、自転車一台分位の大きな石を十年に一回、天から天女が降りて来て羽衣の袖でその石を一回なでる。

そして天に戻る。

また十年たって、降りて来て一回なでる。

そのように繰り返しその大きな石が擦り減って無くなるまでの時間を、一却という永い時間に喩える。

それが「五百却」という永い時間、気の遠くなるような時間です。

つまり、始めのない永い過去から、終わりのない未来永遠をいったものです。

 

一日の命は三千界の財にもずぎて候

お釈迦さまは、自分の後は、地涌の菩薩に任せると言います。

この地涌の菩薩は、永遠の仏、久遠実成の本仏(インドに生まれた、具体的、歴史的な現実のお釈迦様は永遠の生命の活現の姿であって、死とか減するとかは、方便で仮に表されたものにすぎない)もともとの弟子(本化の菩薩という)であるからだという。

また、本化の菩薩は、この娑婆世界に居たものでないと資格が無い。

強い意志、忍耐力が、必要である。弾圧、誘惑にも負けない高徳の者で無ければならない。

前号での多勢の菩薩が「私たちに乱れた世の中の布教をやらせて下さい」と手を挙げたといいましたが、この菩薩達を「迹化の菩薩」といいます。

迹化の菩薩とは、本仏が他の色々の世界(この娑婆世界以外)で相手に応じて身を表した種々の分身の仏(迹仏という)この迹仏の弟子を迹仏の菩薩とも他方来の菩薩ともいいます。

お釈迦さまは、本化の菩薩、迹化の菩薩、共に乱れた世の布教は大変困難がつきまとうものだから、強い使命感を植え付けるために「法華経を広める者は居ないか」と問いながら「広めさせて下さい」という菩薩達に「止めなさい」と言われたのです。

また「一日の命は三千界の財にもずぎて候」と。

人の命はたとえ一日であっても、あらゆる世界の最高の宝物より貴く大切であると言われています。

私たちは、身体も周りの自然も自分の力では、どうすることもできない。

皆、大宇宙の法則によって生かされている。大宇宙、つまり仏の力によって私たちは生かされているのです。

仏の力に合った生き方をする人は幸せになるでしょう。

 

平成15(2003年)年01月01日発行 第50号より